30、心蓮上人

理覚房と号した。
いつも修行・学問に励んで、人々と交わることを好まなかった。
心に極楽世界をかけて、
顕教・密教の法門・両部の大法・諸仏の秘事に眼を向けた。
口には、これを伝え、よどみなく、
昔、伏生が尚書を読んだようであった。

江南には菩提の種がいまだ植えられていないが、
今もう心蓮は法門にたけている。
高野山上に碩徳の名前を伝え、堂宇を建立し、
仏像をあまた造り、
護摩修行は十箇年に及び、
千手の行法は四十余回おこなった。
持誦する経文はうずたかく積み上げられていた。

こうして治承5年(1181年)夏4月、
睡眠も食欲も失せ、薬も鍼も効かず、
帰らぬ人となった。
この世に別れを告げたのだ。

口に真言を誦していたのだが、
死後もなお手には不動の印を結んだままだった。


注記

1181
高野山の住侶。
字は理覚。
俗姓不明。
高野山に長年住み、学を好んで名利を欣ばず、顕密を究め、両部大法・諸尊秘軌を伝承した。
常に法華を誦じて法験を顕し、諸人化益をこうむるもの枚挙に遑あらず。
養和元年4月18日、結印誦呪しながら入寂。
享年不明。

伏生は伏勝とも。
秦の博士。
焚書坑儒(始皇帝の儒教弾圧)の時に、『尚書』を壁に埋めて護った。
『尚書』は『書経』のことで、古くは単に『書』と言った。
『書』といえば、『書経』のことなんですね。
孔子が編纂したと言われており、儒教の重要な5つの経典の一つです。
内容は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書です。
『書経』と呼ばれるようになるのは、宋代以降です。
漢の時代になり、儒教の禁が解かれます。
皇帝は、尚書を知っているものを召しだそうとし、伏生の名が挙がりましたが、当時彼は90歳という高齢でしたので宮中には行かずに、かえって彼のもとへ派遣して尚書を学ばせたそうです。


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