28、検校阿闍梨 宗賢

紀州三谷郷の人。
幼くして高野山に登って、若くして比丘になった。
明敏で、顕教・密教を兼ねて学び、
或る時は興福寺に住み、大乗の流れを汲み、
或る時は醍醐山に住んだ。

胎蔵・金剛の両部の法を伝え、
後に高野山に三間四面の堂を一宇建立した。
金色の丈六の仏像を五体、
三尺の仏像を十体、
妙法蓮華経二十部、金泥理趣経一巻を堂宇に安置した。
鳥羽法皇が御祈願寺に寄進したのである。

仁平元年(1151年)12月16日にこれを供養した。
即ち、釈迦・阿弥陀仏の宝前において、
おのおの尊勝・法華・光明真言の行法を修し、
長日にわたって、
上には悟りを求めて、下には衆生救済を求めて、お勤めした。
その自利利他の行願は久しく薫った。
そして、ついに某年某月某日に入滅した。


注記

1097-1178
高野山東南院の学僧。
字は智慶。

幼くして高野山に登り、聖仁の室に入り得度し、後に興福寺にいって法相を学び、醍醐山聖賢に随って両部灌頂を受けた。
大治3年10月高野山に帰って東南院に住し、良禅に就いて中院流の伝法を受けた。
仁平元年東別所に三間四面の堂を建立し、丈六金色の阿弥陀仏などを安じた。
同12月16日落慶供養を営み、鳥羽法皇御願所とした。
これは今の蓮華谷の丈六堂である。
永万2年高野山第23世検校に補任。
仁安3年5月伝法院裳切騒動に連座して薩州に配流された。
嘉応元年11月、恩赦によって帰山。
治承2年3月10日(一説に寿永2年9月13日)東南院において入寂。
寿82。
付法に心印など12人。

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