23、智明房頼西

伊勢の上人と号した。
上人の母親が和州の長谷寺に祈って身ごもったと言う。
後に、母親は、こう告げた。
「私は夢で、観音菩薩から錫杖とアカ(浄水)桶を賜る夢を見た。
 お前はきっと聖人になるに違いない。」

そこで25歳になって発心し、修行をはじめた。

しばらくして、父が逝去したとき、
家や田畑の権利書の紙の裏に、陀羅尼を書き付け、その功徳のあることを薦めた。

世間の雑事に身を交えずに、心を俗塵に染めずに、
一日三回の修行法を行った。

一心に仏を念じ、
それでも修練に怠りはないかと厳しく思っていた。

仏を唱念する声は、喉の中にいつもあり、
あえて壁の外まで聞こえるということはなかった。

色々な流派を学び、いよいよ高野山に朴居することになった。
ますます修行に勤めた。

ここに一人の童がいた。
智人に遇いたいという願を持っていた。
そこで長谷寺に詣でて、道々でも神仏のご加護を感じた。

そうして、高野山に登り、山の人に、
「この山に智行の人はいますか?」
と尋ねた。
すると答えるには、
「いますとも。
 智明房という人で、顕教も密教も学んでいて、
 智行の人ですよ!」
ということだったので、童は歓喜した。

そこで、上人のところへ行って、そっと道場の荘厳の影から見ていた。
そうすると、そのはなはだ厳粛な様子だったので、
たちまち深く欣慕の心を起こして、
さらに俗世を嫌う心が生じた。

再び長谷寺を訪れ、観自在菩薩に念じた。
頭を深く垂れて礼拝すること千度、
法華経普門品(観音経)を33遍唱え、
清らかに祈りを捧げてひとえに上人の弟子になりたいと願った。

こうして7日が過ぎた。
上人はこのことをききつけて、自分の室に童を迎え入れた。

あるとき、上人は亡くなった母の生まれ変わり先を知りたいと思い、
三宝に懇ろに祈った。
夢に、
「新しく来た童が、お前の母の生まれ変わりだよ」
などなどと告げられたので、上人は歓喜して童を慈育した。

その年に出家を許し、9年後に始めて、その夢のことを語った。

更に6年が過ぎた。
上人の年は84歳になった。
そこで八千枚護摩を修行した。

この年の11月2日、
しょうにんには軽い病があり、
同月の5日亥の刻に治ったようにみえた。

仏前に印を結び、真言を唱え、正しい瞑想状態のまま終焉を迎えた。

実に仁安二年(1167年)11月5日のことだった。

その異体は甚だ軽く、荼毘に付した後も、骨が少ししかなかった。
小さな器さえも満たさなかったので、
人は皆奇異に思った。

また、上人の近親のもので、遺物をもらった者たちも、
正しい瞑想状態で、安らかに臨終を迎えた。
その数は14人だったという。




注記

1068-1151
高野山の住侶。
理趣院中興。
智明房と号した。
幼くして聡明で、出世間(=出家)の志があった。
25歳にして剃髪して高野山に登り、覚鑁上人に就いて灌頂を受け、経論を研習し、のち閑静なところに庵を結んでますます精進した。
入寂は仁平元年(一説に仁安2年)11月5日。
上人の導きによって、浄業をとげた人も多い。

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