17、兼海上人
紀州の人である。
小聖と号した。
久しく高野山に住み、仏道修行をし、大日如来に深く帰依していた。
覚鑁(かくばん)上人に師事し、多年の間、修行を怠らなかった。
そして、深くこころをこめて、浄財をなげうって、八角二階の堂舎を建立し、
丈六の大日尊の像を安置し、
九幅の両界曼荼羅と三部の諸経などを副えた。
仁平二年(1152年)10月、
件の堂舎を鳥羽法親王の御願寺に寄進し、
吏部大卿永範朝臣が院宣によって、願文を草した。
このように、供養の儀式は厳重に行われたのであった。
しかし、久寿二年(1155年)5月30日、
兼海上人は軽い病に冒され、
忽然と逝去した。
臨終の正念のありさまによって、人々によって「往生した」としょうされた。
注記
1107-1155
高野山密厳院第二世。
字は浄法房。
覚鑁上人の入室の弟子で、長年受学し、すこぶるかわいがられた。
覚鑁は「私の仏法興隆・自行化他の大願の10のうち8〜9は兼海の助力によるものだ」と言った。
伝法職位を授けられ、正嫡となり、密厳院を継いだ。
また信慧についで伝法院学頭にも昇った。
根嶺円明寺に居し、八角二階の堂を建立。
かつて(覚鑁?)上人の命により信貴山に登り、毘沙門天に精祈して三個の宝珠を受け、上人に捧げた。
これより先、長承2年5月、高野山密厳院において眞誉に随って密灌頂を受け、また久安2年5月理性院賢覚にも受法した。
久寿2年5月10日入寂。
寿49。
付法に隆海。
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