14、検校阿闍梨 琳賢

紀州那賀郡の人である。
俗姓は平氏。

初め、東大寺の順海に、華厳宗を学んだ。
後に、高野山の慶俊に随って諸尊法を受け、
また、良禅阿闍梨から両部の灌頂を伝えられた。

彼は浄財をもって堂舎を建立し、
私財をなげうって仏教経典を写経させた。

77年の障害を送ったが、その間、多くの数限りない精進を重ね、
迷いを断じて悟りを得ようという望みを持ち、
法を盛んにして、広く衆生を利益しようとした。
その熱心なことといったら、諸先達に恥じないほどであった。

そうして、久安6年(1150年)8月中旬、
にわかに軽い病を得た。
弥勒の像を安置し、
五色の絹糸をつなげて、
手に密印を結び、口に名号を唱え、
忽然と息絶えた。

親しい人も疎遠の人もやってきて、
彼の往生に随喜し、むせび泣いた。

阿弥陀の引接によって、極楽浄土に生まれ変わったのかどうかは分からない。
あるいは、弥勒菩薩のいらっしゃる都率天に生まれ変わったのかも知れない。

どこに往生する縁があるかということは、
他人には推量できないものである。


注記


1074-1150
高野山検校。
字は円如。
紀州那賀郡神崎の人。

高野山では弥勒院に住した。
顕密を兼学して事教二相に通じており、人は「小聖」と呼んだ。

保延5年11月高野山第19世検校に補任される。
堂塔を建立し経典を修繕書写し、興法利生に勉めた。

あるとき旱魃のさなか雨を祈るやいなや、善如竜王常に法壇に現じ、甘雨が滂沱と降り注いだ。
また、書が巧みであって、東大寺誌を書いた。

久安6年8月14日入寂。
寿77。


琳賢阿闍梨は、示寂するや否や全身舎利となり、
滅後60年を経て、承元元年(1207年)、
後鳥羽上皇が高野山に行幸した際、
その廟をあけてご覧になると、
身を正して端座合掌していて、
あたかも生きているようであったということです。

著作に愛染法一巻があります。


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