13、宝生房教尋
俗姓は平氏である。
元は円城寺に住し、後に高野山に移った。
平静より学問修行を怠らず、広く八宗を学び、速やかに五部を究めた。
文殊菩薩を本尊として、灌頂を受け、多くの流派を伝えた。
そうしているうちに、例に違わず、人生の終焉の時を迎えた。
永治元年(1141年)3月20日申の刻、三尺の文殊菩薩が忽然とお姿を現された。
そして、上人にこう告げた。
「これから3日後、寅の刻に至って、一万の菩薩衆と共に来て、お前を金色世界に引接しよう。」
そこで上人は合掌して、次のような頌を唱えた。
「ただ、願わくば、文殊菩薩よ。
私のために金色のお姿を現されて、
私の誓いの願いを捨てずに
すなわち導師となって導き、
その後で浄土にお帰りください。」
その昔、法照禅師は生きた身で仏に遭って、西方浄土の地に往生すると告げられたという。
今、教尋上人も生きながら文殊菩薩のお姿を見て、金色世界の雲に引接すると約束された。
同様のことであろう。
3月23日夜、寅の刻に及んで、忽然と妙なる香りが立ち昇った。
人々は信心を発こし、上人は弟子たちにこう言った。
「お前たち、提婆一品を読み、文殊の真言を唱えなさい。」
上人は密印を結び、禅定に入るが如くして、忽然とこの世を去った。
入滅以後、一日端座し、身体は微動だにせず、手の印もきちんと組まれたままだった。
仏厳房聖心という人は、高野山の伝法院の学頭であった。
談義の間、山に住んでいて、教尋と師弟のよしみを結んでいた。
詳しいことを知っていたのはこの人である。
私は彼を訪ねて、以上の記録をとった。
![]()
注記
今までは阿弥陀仏の極楽往生でしたが、
このお話は文殊菩薩の金色浄土へ往生ですね。
1141
大伝法院の学頭。
永尋ともいう。
宝生房と称した。
初めは三井寺で胎密を学び、ついで治暦5年1月14日に仁和寺北院において性信法親王を礼して伝法灌頂を受け、後に高野山に隠れ、その学徳は並び高かった。
覚鑁上人も、高野山に登って明師を尋ね、教尋に謁して教相の深義を学び、大伝法院を創建するときに教尋に屈請して学頭とした。
暫くして職を退き、丈六堂の北僧坊に篭居してこれを宝生院と称し、文殊菩薩を信仰して常に菩薩と談論したという。
永治元年3月23日、弟子などをして法華経提婆品・文殊真言を読誦させて、文殊の来迎をうけて示寂した。
享年は不明。
著作に顕密問答鈔二巻がある。
![]()
次へ