11、検校阿闍梨 良禅

紀伊の国、那賀郡、神崎の人である。
俗性は坂上氏。
母が、月輪が胸中に入るという夢を見て、懐妊した。
永承3年戊子(1048)年に誕生した。
6,7才のときに、常に月輪が見える、と言うので、
父母はこれを恐れ、遂に仏寺に入れたのだった。

11歳で初めて金剛峰寺にのぼり、
任尊参篭に師事した。
14歳で出家・受戒のあと、北室の行明に遭い、大随求・大仏頂などの陀羅尼、ならび
に両部の大法を受けた。

長らく山門を閉じ、俗塵を顧みず、穢土を厭離し、浄土を欣求した。
これをもって自行とし、周りの者は「小聖」と呼んだ。

その後、中院検校阿闍梨明算に随って、両界の灌頂を受け、五部の智水を浴びた。
誠にこれは寺々の中でも勝れたものであって、仏家の棟梁とでも言うものである。

金胎の入壇者は35人に及び、
一尊のみを受法した者に至っては百人以上。
それぞれがさまざまな修行をしていた。

そこで、真言堂を建て、諸尊像を安置した。
長者の僧正寛助に頼んで師として、3人のお付の僧を置いて、長日にわたって行法を始めた。

また、慈氏(注:弥勒)堂を建て、法華法を修し、大僧正定海を導師として、供養をした。

また、多宝塔を一基建てた。

まさに知るべし。
諸仏はこれによって説法をするのである。

その他、鐘楼・経蔵がひさしを連ね、瓦を並べ、良禅が高野山に来てから81年が過ぎていた。

保延5年(1139年)2月21日寅の刻、浄衣を着て、新しい座をしいて不動尊を拝し、
ことさらに祈り奉った。

次に南方を向いて御影堂を拝し、次に西方を向いて安養界を望んだ。

身心不動にして忽然と遷化した。
年は92で、僧侶になってからは79年であった。
遷化に際して、奇瑞霊夢の記録は尽きることがなかった。

ある人が言った。
「入滅後、卒塔婆を建て、遺体を安置した」
その場所を谷上と称し、
良禅が建立した堂舎などは門跡が継承し、
法灯は絶えることがない。


注記

1048-1139

高野山検校。
字は解脱房、世に北室聖と号す。

寛治2年明算に従い重ねて両部灌頂を受け、五部秘印を伝えられる。
永久3年、第22世高野山検校に就任し大いに堂塔を修繕する。
天治元年鳥羽上皇の行幸の時、勅命を受けて香衣を賜り、法眼に叙せられる。
真言堂・慈氏堂・多宝塔・鐘楼・経蔵等を建立し、祖山の建立に尽力した。
検校に任じられる事は前後2回、山務を領することおよそ30年。
引接院に引退し、保延5年2月21日入寂。
付法に行慧・琳賢・日禅・教覚・兼覚など。

新義側の覚鑁上人の伝記をみると、この方が極悪人のように書かれています。
実際はそんなことはなく、たくさんの勝れた業績を残しています。
覚鑁上人と同時代に生きたもう一人の雄だったのでしょう。


次へ

往生伝目次へ



密教の小部屋へ