7、隠岐入道 明寂

隠岐の守、大江安成の息子である。
遂に俗世を逃れ、仏道に入り、戒律を授かった。
以降、虚空蔵菩薩を本尊として、求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるとい
う厳しい修行)を修行して、
悉地を得た。

その後、高野山に住し、良禅阿闍梨に随って、胎蔵・金剛界両部の大法を受けた。
一生の間、長く五穀(所説あるが、米・大麦・小麦・小豆・胡麻または大豆)を断
ち、
塩も酢もなめなかった。
ひとえに菩提(さとり)を求めて、休息するということがなかった。

しかるに天治年間(1129〜1125)、
いささか軽い病があり、
終わりの時が来たのだと知った。

傍らに鑁字を懸け、手に絹糸を持ち、
口に真言を誦し、手に密印を結び、
一心不乱に念じて、成就した。
時刻は明らかではないが、忽然とこの世を去った。

ある人が夢を見た。
暗い中で声がした。
「五の室菩薩が往生した。礼し奉るべし。」
ある説では「五の室菩薩」とは、別人の号だともいう。
真偽は、有識の人に尋ねてみるべきである。



注記

1124の頃

明寂(密教大辞典によると「ミョウジャク」)は、高野山最禅院の学僧。
字は覚俊または覚舜。
壱岐守大江安成の息子で、隠岐上人とも称しました。

高野山中興の祖であり中院流の開祖となった明算上人の弟子であり、秘密教の源底を探り、良禅に受法し、のちに小野に学び良雅の門を叩いて法を伝え、醍醐の勝因に法を受け、帰山して一心院・最禅院に住し、もっぱら修観に励みました。
また新義真言宗の祖・興行大師覚鑁の師としても有名です。
永久2年、覚鑁上人は南都より登山し、明寂に師事琢磨し、その加護助成により求聞持法を八回修行をし、大いに慧解進んだと言われています。
そこで、覚鑁は常に上人の鴻恩に応えようと誓ったという事です。
今見られる求聞持の次第や覚鑁の書付にも、明寂の名前が出てきます。

これより先、寛治年間に白河上皇が高野山に行幸なさった時、瑜祇秘文を明寂にお授けになりました。
これは、弘法大師が瑜祇の秘文を書いて嵯峨天皇に授けて、以来歴代天皇が護持して玉体から離さなかったものだと伝えられています。

付法には、覚心・覚鑁・覚雅・定慧・眞空。

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