3、阿闍梨維範(あじゃり・ゆいはん)

紀伊の国伊都郡相賀の人である。
俗性は紀氏。

顕教と密教を求めて山林に心を馳せて、
ついに俗世の生活を辞して、
長く高野山の雲海に過ごしていた。

俗に「南院阿闍梨」と呼ばれた。
ひとえに下界を厭い、専ら西方極楽浄土を望んでいた。

享保三年(1096年)1月28日、にわかに軽い病になった。
2、3日過ぎて、2月1日になった。
法華経一部と不動尊一万体を刷って供養した。
3日の早朝、軽く沐浴をして衣服を改めた。
尊円上人に尊勝護摩法を修法させて臨終正念にそなえた。

この日、維範阿闍梨は護摩壇に向かって、敬って礼拝して言った。
「私の命は今夕で尽きるであろう。
 曼荼羅を見奉るのは、もう今だけである。」

すぐに本房に帰ると、西を向いて端座し、
手に阿弥陀仏の妙観察知の印を結び、
口に阿弥陀仏の法号を唱え、
用意していた五色の糸を阿弥陀仏の御手につないで、自分の印と接するようにした。
そして、ようやく子の刻に及んで、眠るがごとく息が絶えた。

5日に廟室に葬った。
10日間、門人が訪れて覗いたが、容貌は変わらず、印は乱れておらず、ひげと髪が少
し生えていて、
臭気も全然なかった。
よって、僧侶も俗人も集まって、ご縁を頂こうと門前に市をなした。

五七日に至って、門弟が相談して廟室を開けてみると、
印も容貌も元のままであった。
この奇異を畏れて、廟に鎖をかけて開けないようにした。

維範阿闍梨が臨終の時には、瑞相が沢山現れた。
院内の行者で信明、字は北筑紫聖という者は、
久しく庵室を閉じて門を出なかった。
そのとき、空中から
「維範阿闍梨がただ今入滅した。
 すみやかに南院の草舎を辞して、
 すでに西方浄土の蓮台に移った」
と声がした。

また、慶念上人も同時に夢を見た。
それは、大きな城があって、僧たちが集まり、
その中で南院阿闍梨が日想観を修していて、
このときに西方から音楽が聞こえ、仏菩薩天人衆が東からやってきた。
まず伽陵頻(聖なる人面鳥)が下ってきて、
次に小田原教懐(注:往生伝1でご紹介しています)が臨終のときの衣装で雲に乗っ
てやって来た、という夢であった。
そこで、慶念がそのわけを問うと、傍らの人は
「南院阿闍梨が往生したのであろうよ」
と言った。

また、定禅上人という者は高野山に長らく住んでいた者であったが、
数ヶ月留守にしていて、この日に帰ってきた。
阿闍梨の入滅を聞いて、涙を流して泣き、臥せってしまった。
その夜に夢を見た。
西方の天が高く晴れていて、紫雲が斜めにたなびいて、
無量の仏菩薩天人衆が集まっていた。

また、維昭上人は、先年に如法経を書写し、
阿闍梨供養として大師の廟に埋めた。
この日、そこで理趣三昧を行じていると、夢でもうつつでもなく、空中から次のよう
な声がした。
「千載一出の沙門が、ただ今入滅した」

このような奇異は沢山あったが、多くを省いて、少しだけを記した。


注記

1011-1096

維範師は、高野山南院中興の開基と言われています。
よって「南院阿闍梨」とも言います。
京の出身という説もあります。

あちこち訪ね歩いて顕密二教を究め、康平6年(1063年)大和の壺坂で太念から伝法灌頂を受け、
徳行高邁にして子島流南院方の祖となります。
後に高野山に上り、名跡である南院を再興し、承保二年(1075年)11月高野山第11世執行検校職となります。
永保元年(1081年)2月、京極師實が来山して奥の院で法事をするのにあたり、
維範は理趣三昧導師を勤め、
応徳三年(1086年)9月27日に灌頂院が落慶し、初めて結縁灌頂を行うや、抜擢されて大阿闍梨を勤め、
即日、明算・良禅(注:いずれも当時高野山を代表する名僧)と共に灌頂院供僧に推挙されます。
高野山に登って16年、寛治三年(1089年)になると、諸職を辞して、専ら自行に励みます。

寿86(一説に82)遺命して荼毘に付します。
小祥忌に至って棺を開くと、印契もしっかりと結ばれたままでした。
これを知った僧侶たちは礼拝して、のちに深く廟を閉ざしました。

維範入寂の時、信明・慶念・維照・定禅・尊円などの諸師はいずれも奇瑞を見聞したという。

又、有名な波切り不動尊は、もとは山王院にあったが、
寛治年中に大御室性信親王が、維範の高徳をたたえて、南院に遷したということです。

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