1.沙門教懐(しゃもん・きょうかい)

京の都の人。
幼くして出家して、興福寺に住した。
壮年になって寺を離れ、小田原に居した。
故に、「小田原迎接房聖」と呼ばれた。
その後、高野山に移り住んだ。
そうして20余年を送った。

彼は毎日、金剛・胎蔵の両界の修行と、阿弥陀仏の修行をした。
大仏頂ダラニを唱え、阿弥陀真言を念誦した。
自分のため・他者のための修行は人々が計り知れないほどしていた。

しかるに、寛治7年(1093年)5月27日、
病は篤いというほどでもなく、
いささか軽い病があるというほどであったが、
その翌明け方、自らの手で不動尊数百体を模写して、
それをすぐに開眼供養した。
そして巳の刻(午前10時)に及んで、
衆僧は異口同音に念仏合殺を唱えた。
教懐は右脇を下にして、西を向いて、寂然として息が絶えた。
この時、年は93歳であった。
徳行の力によって、兼ねてから死期を悟っていたのであろう。

教懐上人の入滅の日、周囲では瑞相があった。
その日の申の刻(午後4時)、
美しい雲がにわかにおおい、室内はたちまち暗くなった。
それは数刻して移っていき、晴れ上がった。
暗くなった時、院内の僧の延実・快暹(かいせん)は、それぞれ住坊で遥かに天の楽
の音を聞いた。
そこで諸房に行って、そのことを他の人たちに告げた。
ある人はハッキリと音を聞き、
ある人はかすかな音に耳を傾けた。

そしてまた、後夜になってまた楽の音が鳴り、
その曲はしだいに西を指して去って行った。
しばしばこのような瑞相というものはあると言うが、
だからといってその人が確かに浄土に往生したかどうかは分からない。

しかし、維範阿闍梨(ゆいはんあじゃり)が逝去された夕べに、
慶念上人は、無量の仏菩薩衆が維範阿闍梨を迎えにきた夢を見たのだが、
その仏菩薩衆の中に教懐上人も雲に乗って来たということだ。
もし、教懐上人が往生した人でなかったら、
どうして仏菩薩衆の中に列するということがあろうか?

元暦元年(1184年)4月。
私(如寂)は高野山に参篭し、かの上人の聖跡を訪れた。
小田原別所に至り、古老の住僧と話すことができた。
かの教懐上人の親は高官であった。
名前はわからない。
讃岐の役人をしていたときに、科人を召し捕らえ、
過酷な責めを加えた。
その時、教懐上人は幼童であったが、深い憐れみの心を施したが、
過酷な刑はやめられなかった。
そしてついにその科人は命を失い、悪霊となって深く怨念を結んだ。
これによって、その高官の子孫はみな、若死にしてしまった。
教懐一人がわずかに命を留めているとはいうものの、
その悪霊はいまだに恨みをやめないで、
祟りをしばしば示した。
そこで山城の国を出て、この高野山に移り住んだのである。
そしてこの場所を「小田原」と称したのであった。

平生は草生す草庵であるが、
その跡はいまなお存在している。
肖像画が堂に安置されていて、
見るものはむせび泣き、断腸の思いである。

私(如寂)はここにやって来て縁を結び、
専ら今、その肖像画に礼拝している。
画は昔のままで、新しく感じられる。
まるで生きているように。
右方に首を傾け、安座し、何か唱えている姿である。
袈裟の緒に護仏を結び付け、紙でくるんでいる。

近辺に住む僧が来て行った。
「上人は、怨霊を恐れていました。
 この霊地・高野山に住んだ後も、
 その怨霊はなお現れました。
 これを「黒法」と言っていました。
 しかし、この守りによって現れなくなり、
 臨終において正しく瞑想し、遂に往生しました。」

誠に知った。
仏界と魔界は一如無二(同じモノ)なのだなあ・・・。



注記

1001-1093

紀州高野山住侶。字は迎接房、小田原上人と称す。
左中将・藤原教行の子、興福寺喜多院林懐に法相を学んだ。
壮年を過ぎて山城小田原に庵居し、楽邦を願う。
後に高野山に移り、20数年山を降りなかった。
両界の修練を日課として欠かしたことがなかった。
師初め一水瓶を蓄え、時々念を繋ぐ、忽ち悋情を慙じ、これを檐(ひさし)下の石に投ず、その志操見るべきなり。
寛治7年5月28日手自ら不動尊容百紙を模写し、衆を招いて供養念仏し、頭を北に向け、顔を西(阿弥陀仏の極楽浄土の方角)に向けて逝去したという。
寿93。




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