35、宰相阿闍梨 心覚

円城寺の住僧であった。
参議平実親卿の子息である。
智證の門弟で、天台の教観を学んだ。
僧侶としての高い地位を楽しまずに、
ただ菩提を得ることを望んだ。

二十五年光明山に住したが、
その後、かの山を降りて、高野山に住した。

阿闍梨兼意に逢い、三部の深旨を究め、
諸尊の秘法・両界の灌頂を受け、
一日三度の行、朝暮の礼懺は
生きているときは休むことがなかった。

養和二年(1182年)4月、病床に臥した。
癒えそうにもなかったが、日課を欠かすことはなかった。

そして、死期を悟った。
6月24日になって、起き上がって端座すると、
印を結んで真言を誦したまま、にわかに滅した。


注記

1117-1180
常喜院流祖。
字は仏種房。
宰相阿闍梨または常喜院阿闍梨と号す。

初め三井寺園城寺で剃髪受戒し、常喜院に在って十乗観法を習った。
そして勅を拝して宮中において興福寺珍海と宗義を論じ、たまたま心覚の答辞が屈してしまった。
そこで顕教を捨てて密教に入門し、醍醐山賢覚・実蓮の二師に随って小野法流を受けた。
また和州光明山に入って覚聖に随って受学し、苦労して学を修め磨いた。
山を25年下りなかった。

後に高野山に登り、保元元年4月19日成蓮院において兼意に就いて三部の玄奥を究め、両部灌頂を受けた。
また応保2年6月17日、金剛峰寺において覚印に重受した。
常に密教儀軌を精尋して多くの著作を著した。
僧官を厭い、菩提を求め、高野山に一院(元の名にちなんで常喜院とした)を構えてそこに住んだ。
後に堪増の譲を受けて兼意の遺跡である往生院(今の遍照光院)に住した。

治承4年6月24日、同院にて入寂。一説には養和2年6月24日。
寿64
台密・東密野沢の諸流を兼伝し、自ら一家風を樹立し、その流派を常喜院流または往生院流と称した。
付法に禅信・元性・顕覚。
著作は『貝葉集』『別尊雑記』など多数。


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